いつの日にか書こうと決めていたこのエントリー、まさかこんな形でその期を迎えるとは...
「80年代学園映画の代表的監督、ジョン・ヒューズ死去」
彼の数ある秀作の中でも「ブレックファストクラブ」「プレィティ・イン・ピンク」「恋しくて」「ある朝フェリスは突然に」は80年代を代表する学園映画であり、彼の作品の中でもマスターピースと呼ばれるもの。その中でも特筆に値するのが「ブレックファストクラブ」。この映画が公開された'85年(昭和60年)までにあった「作られた」青春映画の流れを一掃し、全く新たなジャンル、リアルな「学園映画」を確立したエポックメイキングな作品。次世代学園映画の一翼を担ったオリジナルにして最高傑作。米 Entertaiment Weekly 誌が'06年に選んだベスト学園映画 50 の内 No.1に選び抜いた、全米が認める学園映画史の金字塔とも呼ばれるカルト・クラッシック。
舞台はイリノイ州郊外のありきたりな高校。五人の生徒が土曜の早朝から各々の理由で8時間図書館に拘留される(放課後の居残りみたいなもの)。与えられた課題は「自分とは何か」というエッセイを書くこと。私語、離席、飲食、睡眠、全て厳禁。
完全なる密室劇、要となる登場人物の緻密な設定こそがこの映画を他の学園映画と一線を画す最重要なファクターとなっている。ギーク(ガリ勉くん)、ジョックス(スポーツバカ)、ミスフィッツ(適合不可)、プリンセス(金持ちで人気者)、フューチャークリミナル(犯罪者予備軍)という、どの学年にも必ず一人や二人はいるであろう身近で馴染みのある存在で固められた、米社会の縮図とも云えるバラエティー・バンチ。そして彼らを管理する大人社会の象徴、校長先生。
膨大な時間を一つ屋根の下で過ごすに連れて絡み合う発達途上の弱年ハート。世界観やバックグラウンドが異なる疎遠なスクールメイト間の実直なコミュニケーションが数々のフリクションを生み出す。誰しもが抱えうる家族とのトラブルや大人社会との葛藤、やりどころのない怒りや悩みを様々なシチュエイションで少しずつ露呈し合い、せめぎ合い、分ち合うことによって自他の理解を徐々に深め受け入れ合っていく。とある土曜日の想定外のヒューマン・リレイションが彼らの後生に多大な影響を与えるほどのライフ・チェンジング・エクスペリエンスとなる。
当時の年頃の繊細なメンタル・アティチュードの見事なまでの描写は、同年代のみならず親御さんや教育関係者らにも大きな衝撃を与え、今もなおその余波はオマージュ、パロディ、サンプリングといった形で各メディアでアップ・トゥ・デイトされ続けている。
親や社会は子供の内に秘められた真なるキャラクターを軽視し、自分達に都合のいいカテゴリーやステレオタイプに当てはめ、彼らが見たいようにしか子供達を見ない。そんな大人の乏しく偏ったハイ・ティーンズの解釈がこの映画で始めて問題視された。大人と子供の狭間を行き交い迷いさまよう若者は、時として無知で非道徳かもしれないが、かといって彼らの人格を無視し、祖末に扱ってはならないのだと。彼らも大人同様、一人の人間として尊重し向かい合うべきではあるまいか、と、その時代に異論の一石を投じた。
この映画のフォーカル・ポイントは生徒達がラストで校長に宛てた一枚のエッセイ(というか短文)に集約される。先に与えられた「自分とは何か」という課題が、親が自分にどんな人間になって欲しいと期待を寄せているのか、ソサイエティが望む自分のロールとは一体どんな役割だと思っているのか、といった改訳にトランスレイトされるまでの過程こそがこの映画の趣旨で、5人のヤング・アダルトの8時間にも及ぶ極度なまでのグループ・セラピーの集大成的アンサーは、愚問を問うた校長の意向を揶揄し、ユース・スピリットの雄叫びを代弁する声明となり、この映画を結論づけるべく社会に表明されたのである。
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自分が渡米していた5年半の間、憧れでも実体験でもあったアメリカ学園生活の最中、幸運にもほぼリアルタイムでヒューズの作品に触れることができた。最も多感でそれなりに辛い思いもしていた時期だっただけに、彼の作品には深く感化され、映画のキャラクター同様、その後の人生に大きく反映されていった。
時を経た今振り返って観ても、そこには当時の感覚がその日のままストレージされており、今でも自分を投げ入れて観ることでその時感じていたその歳ならではの深い感情がまざまざと呼び起こされる。映画監督/脚本家というカテゴリーに限って云えば、ヒューズほど自分の人格形成に関与した人物は他にいない。ヒューズがこの世を去った後でも、彼のDNAを温存し続ける僕は、何の恥じらいもなく
ジョン・ヒューズ・チルドレンを自負したい。
合掌。
参照文書:80's グラフィティ、他