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December 2007  Back to Top
人それぞれの芸術鑑賞法

全ての芸術を完璧に理解している人なんて一人もいない。そして誰かのある作品に対しての理解が誰かのそれを上回っていようと、それは自分とその作品の間に生じる関係に何の影響も与えない。自分が感じたこと、それが全てでいいはずである。

何の予備知識もない子供には芸術は分からない、よって子供は芸術に触れる必要がない、なんて考えはナンセンスで、中には子供が持っている柔軟で探求心の固まりの様な脳でしか感じることの出来ない物もあるだろうし、予備知識が無いが故に先入観、固定観念から解放され、素で向かい合えるといった楽しみもあるのもまた然り。勿論、事前に作者の意向や素性を知った上で鑑賞しないと分かり得ない物もあるのも確かで、デュシャンの「泉」なんかは??って思うのも当然。でも分からないとその場で思っても、その時点でもし興味があればそこから掘り下げればいいだけの話で、分からないからその場に足を運ばない、運ぶ意味がないという訳ではない。

僕は自分の中から「もっと知りたい汁」が出ない限りあえて知識はなるべく入れないようにしている(勉強嫌いとも言う)その方が己の過去のデータベースに基づいた私的な感覚や意見を持て、よりパーソナルな体験としてインプットされるから。情報を事前に入れ過ぎるとどこぞの評論家が言ってそうなありきたりで陳腐なフレーズが一瞬先に意識上に現れ、それがイニシャルイメージとして脳内に記録されるのがシャクなのである。たとえ自分から湧き出た言葉がいくら陳腐でありきたりでも、それは自分の言葉であるからそういった部分での不快さを感じることはない。

芸術は発信する側と受信する側の間に何らかの作用が生まれて成り立つものであるのは間違いない。多くの人は発受信の場=美術館でそれらの作品群を受信/鑑賞する訳だけど、その鑑賞法は人それぞれ。ましてはその日の気分によって、または見る物によってその人個人の鑑賞法も換わってくる場合もある。あるいは自分に合った鑑賞法が見付からず、食わず嫌いになっていてもったいない日々を過ごしている人もいるかもしれない。先日、NHKの某番組で美術館の楽しみ方みたいなのを紹介していて、いくつかあったポイントの内二つほど気になったので、僕なりの超訳と共にここに記させてもらいます。でもまあ所詮人の考えたメソッド、合う合わないもあるでしょうからあくまでも参考までに、。意外と普通に実践してる人もいるかも?

一つ目は、美術館だとお金を払って見てるという意識が働いてか、ある物ない物全部じっくり見て、分からなくていいものまで分かろうとして、自分の感覚を無視してまでも、なんでもかんでも乱暴に脳内にインテイクしてしまいがち。この思考回路、我々資本社会に生きる人間にデフォルトでインストールされているのでしょうか?そんな意識しないとそこにあるのすら忘れてしまいそうな本能まがいのメカニズムを一旦スリープさせ、真逆の発想を持つとどうなるか。つまり全部見るのはもったいない、という考え方にシフトする。好きな物、気になった物だけを見て、見た物は無理に分かろうとせず、興味が湧いた部分にだけ意識を集中させる。すると自分の感覚に関係ない物をスルーさせる事ができ、自分が興味を持った物、感じたことのみを心に留めておく事ができる。同時にそれは常に自問自答を繰り返しながら見ることになるので、自分の好みを判別することにつながり一石二鳥でもある。お金はそこから持って帰る感動に払っているということになり、結果的にもったいなくない、と。なので興味がないと思ったら迷わず素通り、いいなと思った気持ちはしっかりと to go に、。

二つ目は、受動的に見ないで能動的に見るようにする。ただただ受け入れる、受け止めるだけではなく、自分の方から積極的に気持ちを入れ込んで見るようにする。ではどのようにすれば能動的に見られるのか。それは自分に、もし一つだけ買うとしたらどれを選ぶか、と問うことで可能であると、。そうすると気になった作品を好きなアイスクリームのランキング付けをしているかの様に吟味することになり、脳内で最も高度な情報処理を行う前頭連合野が活性化し、ただ見させてもらっているという行為から、村上隆の芸術起業論的な??金銭を一つのツールと見なしたビジネス風マインドセットで向き合うことになる。そうすると今まで見ていた作品が自分にとってどういう存在なのか、というあくまで自分在っての対等な関係が生まれることに、。その自分の家に飾るなり置くなりするわけだから、家電とかのデザインを決める時みたいに真剣に見較べるようになる。よって同じ作品の見え方も変わってきてより一層楽しめるのだとか。

僕はこの二つを胸に、でも頭はいつも通り真っ白にして森美術館で開催中の「六本木クロッシング」を見てきたんですが、意外と役に立った気がします。一つ目は気持ちが妙に楽になったせいか、気になった作品だけをピンポイントにじっくりと見られたし、二つ目は今までにはない現実的な視点でいろいろと見れたので、最初は戸惑ったけど慣れたらそれはそれで面白かった気もします(何故か後日にどの作品をどういう目で見たのかを思い出すことも出来た)でも二つ目は奇妙難解で理解に苦しむ物ばかりの時に試した方がより効果的かもしれない。「六本木クロッシング」はどれも分かりやすく、何も考えなくても十分に楽しめると思う。本当は何も考えないで見るのが一番いいんですよ、やっぱり。ってこれだけ書いておいて、。いやいや、既に見れてる人は何もしなくていいんです。ただ、美術館で芸術鑑賞をするという行為に抵抗がある人に、オルタナティブな考え方もあるということを知った上で引きこもってもらいたかっただけなので、。騙されて行くなら「六本木クロッシング」に、。

ベストドラマ オブザイヤー

freaksandgeeks.jpg

2007年は「Feaks and Geeks」というアメリカのハイスクール・ドラマに決まり。時代は1980年の設定(99年制作/00年放送)ドラマなのにびっくりするほどリアリティーを忠実に描いた、これはもうある意味ドキュメンタリー?とも言える異作(実際に脚本を書いたPaul Feigという方のセミ自伝的要素も含まれている)誇張された演出や粉飾などはほとんどなく、全米の学園で実在したストーリーをひとまとめにして60分/18話にぎゅっと凝縮してしまった様な、濃密で、痛々しいほどリアルな作品(ちなみにプロデューサーは「40 Year Old Virgin」のJudd Apatow)。このドラマではそれまであまり題材にされてこなかったイケてない人種、Freaks(=裕福な家庭を持たず drug, sex and rock n' rollで、休み時間に体育館の裏とかでタバコを吸ってそうなアウトローな人種)と、Geeks(=またはNerds、体格はきゃしゃか幼児体型でオタク素質、人とのコミュニケーション能力、運動能力は低いけど自分的には満たされてる人種)を中心に、JocksやCheerleaders らのハリウッド的な世界にはない、より down to earth で never happy ending な世界観でカルト的な支持を得ているこのドラマは、82年の「E.T.」をきっかけにエイティーズのアメリカンキッズライフに魅了されてしまった僕にとっては目からウロコ的な作品。そこをもっと見たかった、そこの所を巧く(=ありのままに)描写して欲しかった、といった場面の連続に空いた口が塞がらず。。毎エピソード、各シーンごとに選曲された音楽(曲数がスゴい、DVD化の為にクリアランスを取得するのに4年を費やす)とか、衣装(パンツの太さから当時の細かいトレンドまで)言葉使い、乗ってる自転車、マニア泣かせのギミック等々、これでもかと云わんばかりの拘りよう。1ショットの密度と全体の完成度が圧倒的にアウトスタンディング。。。「Sixteen Candles」「Breakfast Club」「Ferris Beauller's Day Off」「Fast Times at Ridgemont High」等ではカバーしきれなかった隙間をドラマならではのきめ細かいタッチで丁寧に埋めてみました、といった感じ。これを見て今年のドラマランキング 2 位の「My Name is Earl」とかを見るとすっかすかに感じてしまう。。取り上げてる題材、karma とかは自分に置き換えて見れたりして面白いし、作り込みも現代っぽくてイケてるけど、Earlとかいつも同じカッコしてるしなぁ、みたいな、笑。「Feaks and Geeks」はテレビ局側の不明確な理由でワンシーズンも持たなかった?(エミー賞取っておいて)という問題作でもあるのです。(まぁ、エンディングを見ればそれもうなずけるのだけど)これを観ずにして学園を語るなかれ!!!

いのちの食べ方 (our daily bread)

ホラー映画ではないです、笑。でもホラー映画なんかよりもむしろ全然恐ろしいかもしれない。これは03〜05年の間にドイツで撮影された、様々な食物がどの様に生産/加工されているのかを克明に記録したドキュメンタリー映画。ナレーションなし、音楽なし、容赦なし。ただただ長回しのショットでありのままの光景を映し出しているだけ。その手法がやけにリアル。工場で働いている人の会話も聞こえるけどサブタイトルはなし。マシーンの騒音と家畜の悲鳴がBGM。人や機械が、野菜や果物、牛豚鶏を「モノ」の様に扱う様を淡々と見せる、見せる、見せる。どうみても農場ではなく工場。agriculturalではなくindustrial。このビジュアル、食事をする前に見るのは控えた方がいいかもしれません。って、食べ物が出来る過程なのに??何か矛盾してる気が、、。ちなみに映倫の規制はPG-12。つまり12歳以下の子供は親が同伴しないとどうやって我々が毎日食べている物が出来ているのかを見てはいけないということ。僕が今回見たのは小泉武夫氏(東京農業大学教授/日本食育士協会特別顧問)のトークショー付きの特別回。そこで興味深いことを聞きました。一つは人間は生きた物しか食べないということ。口にする物すべては生命体であると、。確かに土とか砂利とか食べないですよね、、。で、他国の多くは食事の際に神様に感謝するのに対し、日本人は「いただきます」と言う。それは生きている物のいのちを「いただいている」から、と説いていて、日本人の食文化は他国のそれよりも理念的なはずだとか、。が、食料自給率は40%以下と先進国最下位にも関わらず処分している食料の量(賞味期限切れなどで)は世界トップであると、、。もしかしたらこの映画の中のアブノーマルな食料生産システムを最も助長しているのは我が国なのではないか、という懸念を胸に観させてもらいました。見終えて思ったのが、僕たちの体は自分が食べた物で出来ている。そしてこの映画はその食べ物が出来るまでの話。言い方を換えれば、これは「僕たちの体が出来るまで」のプロローグ的な映画という見方もできるということ、、。

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